この作品とキリスト教について書く。
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今まで遠藤の作品は「「深い河」」と「「海と毒薬」」を読んだ。
この作品は、根源的なキリスト教に踏み込んでいる。
舞台は江戸時代の日本。
島原の乱が終わった長崎。
3人の司祭がインドからマカオを経由して日本上陸を狙っていた。
だがマカオで一人がマラリアのため病死。
ロドリゴとガルペが布教のため日本へ到着する。
二人には、日本で棄教した恩師のフェレイラ氏の行方を調べる目的もあった。
もちろんこの時代、日本では幕府がキリスト教を弾圧していた。
司教たちは決死の覚悟で船に乗る。
日本を目指す船にはキチジローという日本人がいた。
狡猾で弱かった彼。
彼の行動が、日本での司祭たちに大きな影響を及ぼす。
役人から逃れるため、別れ別れになる司祭たち。
ガルペは信徒が海に落ちるのを見て波に消えた。
キチジローの裏切りでロドリゴは役人に捕まる。
フェレイラ氏の棄教は本当だった。
神は、信徒たちが苦しんでいるにもかかわらず、沈黙したまま。
信徒が逆さ吊りで苦しんでいる声を、番人の鼾と勘違いするロドリゴ。
棄教するよう何度も迫られ、ロドリゴはついに踏み絵に足をかける。
<神の存在について>
哲学者ニーチェによる有名な言葉。「神は死んだ」。
神が死ぬか否かは別にして、死ぬということは存在していたということ。
ところが日本で棄教を迫られたロドリゴの疑問は、さらに根源的。
それがこれだ。
神は存在するのか?
もちろん、この疑問の答を遠藤は出しているわけではない。
私自身は、以下のページでこの疑問についての考えを述べている。
天国はどこ?キリスト教を疑う
神も、天国と同様に信じる者がいれば存在する。
私の考えは実に単純明快。
神の存在については、以下の可能性がある。
| 1、神は昔も今も存在する 2、以前は神が存在したものの、今は存在しない 3、そもそも神は存在しない。人の想像力が作り出した |
人は弱い。
それは神学校に通い、情熱を持って来日した司祭であっても同じこと。
キリスト教が弾圧されている日本に来ること自体がすでに間違っている。
彼らはこの時代の日本に来るべきではなかった。
だが、取り残された日本の信徒たちを見捨てることはできない。
一度その地に信徒が誕生したなら、司祭を継続して送り込む必要がある。
では、キリストがロドリゴの立場であったのなら。
遠藤が「その人」と表現したキリストは棄教したのだろうか?
そして神が信徒弾圧に対して、なぜ沈黙している(いた)のか。
もし神が怒り、幕府の役人に対して奇跡を起こしたなら。
教会は神の奇跡を当然と感じてしまうだろう。
神による奇跡は無いからこその奇跡。
逆に、奇跡ばかりであれば、神はその価値を失う。
需要に対して供給が追いつかないからこそ神の価値がある。
ロドリゴとガルペは決定的に間違っていた。
そのひとつは司祭に虐待を加えるのではなく、信徒を逆さ吊りにする点。
普通の想像力があれば、信徒を狙うことは予想できるはず。
そしてもうひとつが、すでに述べた神の奇跡を求めている点。
神に頼らず、自分たちで布教してこその宗教ではないのか。
宗教指導者は時に幼稚な発想しかできなくなる。
だからこそ教会内で性的虐待が行われる。
天体論、進化論で使途を裁き弾圧する。
「正しいこと」として人工妊娠中絶を行う医師を殺してしまう。
イスラム教徒に対して排他的な態度を当たり前とする。
宗教は人を幸せに導いてこそ価値がある。
今も昔もキリスト教の愚かさは目に余る。
また、宗教は政治と密接に関係している。
この作品にも出てくるルイス・フロイス。
彼は織田信長に取り入って日本での布教活動を行った。
だが信長の死後、天下統一した豊臣秀吉はキリスト教に恐怖を感じた。
秀吉が伴天連追放令を出したのはこうした理由による。
日本でのキリスト教徒増加が時の政権の脅威になることは明白。
時代を読めなかったキリスト教指導者によって日本の信徒は置き去りにされた。
ロドリゴとガルペ。そして信徒たちの悲劇は、フロイスに責任があるとも言える。
人体に異物が入り込んだ場合、拒絶反応を起こす。
キリスト教文化のなかった封建制の日本。
そこに「異物」であるキリスト教が入ってきた場合。
どうなるか読めなかったというのはあまりにお粗末。
次に遠藤の作品を読むとしたら。
第33回芥川賞受賞作「白い人」になるだろうか。
追記
大事なことを書いていなかった。
それは、過去日本で宗教弾圧があったこと。
事実として重く受け止めたい。
「行為がない以上、罪もない」と言うことはできる。
「そういう時代だったから仕方ない」という言い訳もできる。
だが、自分の祖先が宗教を理由に人を逆さ吊りにし、殺した。
それを忘れるべきではない。
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遠藤周作「沈黙」を読んで
↑「いったい神さまは、特定の宗教に信心しないと救われない、という
排他性を持つのかしら・・・?」という記述が目を引いた。
もともと宗教は寛容さを求めてはいるが排他的なもの。
つまり矛盾から始まっている。
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TBありがとうございました。
沈黙に描かれている宣教師達は、イエズス会というカソリック系の教会でした。
コンヒサン(告解)という罪の告白を怠りさえしなければ、いつも神が守ってくれる、応えてくれると信じる他力本願的なところがあります。
それに対し、プロテスタントは人の罪によって死んだイエスが蘇ったことに重きをおきます。
つまり、悪い行いを悔い、生まれ変わること。
遠藤周作さんはカソリック系のクリスチャンでした。沈黙は、「教義に縛られるあまり、他力になるのではなく、自力で立て」と言っているように思います。教会など所詮一組織でしかないのですから、人の命のために教会を裏切ることなど全く罪では無いと。
イエス・キリストは「神の子」というより、圧政と律法に苦しんでいた民を解放するための革命家だったのだと思います。
長々とすみません。
関連して、もう一つTBさせていただきました。
コメント欄がとても意味深いと思いましたので。
コメントありがとうございました。
カトリックについてはコメントにあるような基本的なことは知っています。
もちろん遠藤周作がカトリックであることも知っています。
「人の命のために教会を裏切ることなど全く罪では無い」というのはどうでしょうか。
私の意見は違います。
遠藤が言いたいのは、人が弱いからこそ踏み絵に足をかける。
司教だけでなく、キリストも弱い人間だった。
棄教が罪であることに変わりはない。
私はそう考えます。
以下のページでも、罪そのものは否定されていません。
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/endou/lecture/l03.php
キリストが革命家であったという点
確かにそういう面はあるでしょう。
ですが、革命家の側面が「神の子」より大きいのであれば。
今に至るまでキリストは尊敬されたでしょうか。
すぐに答えは出ないものの、キリスト=革命家という説に、私には疑問が残ります。
TBの記事は読ませていただきました。
ただ、コメント欄に大きな発見はありませんでした。
私の読解力不足かもしれません。