(この記事、ネタばれあり)
![]() 【中古】afb【古本】疾走 (上下セット)/重松清 |
人はなぜ小説を読むのか。
それは読者ごとに違う理由がある。
だが、多くの読者はどこかに「救い」を求めているのではないか。
もちろん私も含めて。
作者の重松は、今までいじめや少年犯罪、人の死を描いてきた。
陰湿ないじめを描いていても、どこかに救いがある作品。
それが重松の特長だった。
ところがこの作品は違う。どこまでも暗黒の世界を描いている。
主人公はシュウジ。
地方都市(重松の故郷、岡山がモデルか)で両親と兄の4人家族。
兄は勉強ができる。
両親ともに兄には期待をかけている。
もうひとつ、この作品が変わっている点。
それは、シュウジのことを「おまえ」と呼ぶ存在。
最初から最後までナレーションを担当するこの主が誰なのか。
最後まで読むと分かる。
この作品、女性から見たらどうなのだろう。
少し前、「盤上の敵」(北村薫)について書いた。
女性の読者から、「傷ついた」という便りが北村に届いた。
「詠んだ人傷つく」ということであれば、この「疾走」こそ注意書きが必要。
人によったらトラウマになってしまうのではないか。
私はそう考えた。
もしこの作品を「どこかに救いがあるかも」と思って読んだ方がいたら。
最後までその期待は裏切られたことになる。ある意味それは悲劇だ。
では、どうしたこの救いのない作品を重松は世に送り出したのか。
私の解釈で言えば、それはこうなる。
「シュウジのような悲劇は実際にある」
被差別部落でなくても、地域で差別することはある。
場所によっては「川向こうの子と遊んじゃいけません!」と親に言われる。
そしてバブリーな開発で地域が滅茶苦茶になることも。
兄が放火魔で、それをきっかけに弟が酷いいじめに遭うことも。
そんな家庭から逃げ出すべく、父親が疾走すること。
ギャンブル狂いから、母親が借金まみれになることも実際にある。
悲劇はシュウジだけではない。エリも悲劇ばかり。
両親が放火して心中。
親類の家に身を寄せるものの、性的虐待を受ける。
これも世界中に多数ある現実だ。
「実際あることは小説として表現してもおかしくはない」
そうは言えないだろうか。
それにしても、私には分からないことだらけだ。
神父はエリの事故をどう考えていたのだろうか。
走ることが好きで、才能もあったエリの足。
だが事故で松葉杖の生活になる。
この件に関する神父の考えを知りたい。
また、嫌がらせを受けつつもその地に教会が残ることの意味。
これも私には疑問だ。
次々に人が去る土地で布教する意味はあるのだろうか。
さらに言うなら、キリスト教が役に立たないという事実。
一家殺害事件を起こし、死刑囚となった神父の弟。
死刑確定前に、その弟とシュウジを会わせる神父。
その試みは、大きく失敗する。
宗教指導者が人を見る目を持っていないことの悲劇。
これは皮肉として喜劇ですらある。
いっそのこと、「ゲルマニウムの夜」(花村萬月)みたいな教会だったら。
もっと悲劇が増やせた。
そうすると「語り部」がいなくなってしまうけれど。
あまりに暗さに、「読まないほうがよかった」とは思わない。
いつかこの作品を、私はいつか読んでしまっただろうから。
それにしても徹底した不幸ぶりにはため息が出る。
***********************
関連記事
重松清『疾走』の書評
「疾走」重松清
『疾走』重松清
絶望の望を信じる…しかない! 〜 重松清『疾走』(文庫 上下巻)
「疾走」重松清
『疾走』 重松清 (角川書店)
重松清「疾走」
重松清『疾走』
重松清 疾走
***********************
***トラックバックはテーマに関係するもののみどうぞ。
スパム防止のため承認制です。その場合リンクは必要とはしません。
一部、こちらからはトラックバックを送れないブログがあります。
コメントについても承認制です。コメントする人は、まず挨拶しましょう。