2011年07月23日

「疾走」重松清

「疾走」を読んだ。救いのない小説だった。
(この記事、ネタばれあり)
   

人はなぜ小説を読むのか。
それは読者ごとに違う理由がある。

だが、多くの読者はどこかに「救い」を求めているのではないか。
もちろん私も含めて。

作者の重松は、今までいじめや少年犯罪、人の死を描いてきた。
陰湿ないじめを描いていても、どこかに救いがある作品。

それが重松の特長だった。
ところがこの作品は違う。どこまでも暗黒の世界を描いている。

主人公はシュウジ。
地方都市(重松の故郷、岡山がモデルか)で両親と兄の4人家族。

兄は勉強ができる。
両親ともに兄には期待をかけている。

もうひとつ、この作品が変わっている点。
それは、シュウジのことを「おまえ」と呼ぶ存在。

最初から最後までナレーションを担当するこの主が誰なのか。
最後まで読むと分かる。

この作品、女性から見たらどうなのだろう。
少し前、「盤上の敵」(北村薫)について書いた。

女性の読者から、「傷ついた」という便りが北村に届いた。
「詠んだ人傷つく」ということであれば、この「疾走」こそ注意書きが必要。

人によったらトラウマになってしまうのではないか。
私はそう考えた。

もしこの作品を「どこかに救いがあるかも」と思って読んだ方がいたら。
最後までその期待は裏切られたことになる。ある意味それは悲劇だ。

では、どうしたこの救いのない作品を重松は世に送り出したのか。
私の解釈で言えば、それはこうなる。

「シュウジのような悲劇は実際にある」

被差別部落でなくても、地域で差別することはある。
場所によっては「川向こうの子と遊んじゃいけません!」と親に言われる。

そしてバブリーな開発で地域が滅茶苦茶になることも。
兄が放火魔で、それをきっかけに弟が酷いいじめに遭うことも。

そんな家庭から逃げ出すべく、父親が疾走すること。
ギャンブル狂いから、母親が借金まみれになることも実際にある。

悲劇はシュウジだけではない。エリも悲劇ばかり。
両親が放火して心中。

親類の家に身を寄せるものの、性的虐待を受ける。
これも世界中に多数ある現実だ。

「実際あることは小説として表現してもおかしくはない」
そうは言えないだろうか。

それにしても、私には分からないことだらけだ。
神父はエリの事故をどう考えていたのだろうか。

走ることが好きで、才能もあったエリの足。
だが事故で松葉杖の生活になる。
この件に関する神父の考えを知りたい。

また、嫌がらせを受けつつもその地に教会が残ることの意味。
これも私には疑問だ。
次々に人が去る土地で布教する意味はあるのだろうか。

さらに言うなら、キリスト教が役に立たないという事実。
一家殺害事件を起こし、死刑囚となった神父の弟。

死刑確定前に、その弟とシュウジを会わせる神父。
その試みは、大きく失敗する。

宗教指導者が人を見る目を持っていないことの悲劇。
これは皮肉として喜劇ですらある。

いっそのこと、「ゲルマニウムの夜」(花村萬月)みたいな教会だったら。
もっと悲劇が増やせた。
そうすると「語り部」がいなくなってしまうけれど。

あまりに暗さに、「読まないほうがよかった」とは思わない。
いつかこの作品を、私はいつか読んでしまっただろうから。
それにしても徹底した不幸ぶりにはため息が出る。

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